ようこそ、またおいでくださいました。私ども十条村は、明治22年(1889)に、新制・王子村へ統合され消滅した「村」でございます。しかし十条村時代の名残りは、ついこの間まで、いえ注意してみますと、21世紀の今日でも、この町のあちこちに転がっているものでございますよ。前回は旧大蔵省の下十条官舎や、下十条駅(現・東十条駅)をヒントにして、「下十条」という区域がどのあたりだったのか、簡単にご案内申し上げた訳でございます。今回も、もうちょっとだけ「下十条」について、お話してみることにいたしましょう。――
◎前回、写真だけご紹介した十条台小学校。ここにむかし「下十条小学校」という学校がありました。ご存知でございましょう。十条台小学校の校庭には、その記念碑が建っていますものね。この小学校は昭和12年に、「下十條尋常小学校」として開校いたしました。その後「下十條国民学校」と名前が変わり、昭和20年、空襲を受けて全焼。学校も廃校になってしまったのでございます。学校があったのは、たった9年足らずの期間でした。それでも…いえ、それだからこそ、今でも地元では「下十条小学校」時代のお話が語り継がれております。

十条台小学校
◎さて、小学校といいますと、前回の村境のことを思い出していただきたいのですが…。上十条村と下十条村の村境には、ちょうど荒川小学校と王子第5小学校がございましたね。どちらも、ぎりぎり下十条側にあったのですが。王子第5小学校が村境にあるのは偶然かもしれませんが、荒川小学校が村境にあるのは、おそらく理由があってのことでございましょう。明治7年、一説によると6年、中十条にある西音寺さんの境内に開校した
「荒川小学校」は、明治10年に王子へ移転して王子小学校となりました。その分校として明治12年、真光寺さんの境内に開校したのが、現在の荒川小学校でございます。この場所が選ばれたのは、上十条村と下十条村の子供たちが通えるようにという配慮もあったに違いありません。大正15年に王子第3小学校が出来るまで、十条の大部分の子供たちは、荒川小学校に通っていたのですから。

荒川小学校・昭和23年卒業写真
◎村境にあるといえば、小学校だけでなく、二つの駅もそうでしたね。前回お話したように、東十条駅はちょうど村境の上にあったのでした。でも駅の名前は開設当時「下十條駅」でした。改札口が下十条側にあったからだと前に申し上げました。しかしながら、実はこの駅を設置するために力を尽くしたのは、主に上十条側の人たちなのでした。ですから、本当は「上十條駅」にしたかったのかもしれませんね。一方、十条駅もまた上下十条の村境に面した場所にありました。実はこの駅を作った時、寄付金を出したのは下十条の人たちでございました。そういう意味では、こちらの駅こそ「下十條駅」の名にふさわしいという気がいたします。なんだか、アベコベなのでございます。

昭和30年ころの十条駅西口

昭和初期の十条駅ホーム
地図はこちらから
いかがでしたでしょうか。
上十条村と下十条村の境界線が少しはイメージ
できましたか?
村境は、村の入口なのでございます。
私たちは十条村への
入口にさしかかったところ。
まだまだ奥は深いのでございますよ。
ぜひまた
のお越しをお待ちしております。
十條村役場 観光課スタッフ
榎本 龍治